カテゴリー別アーカイブ: 男色の変客

薩摩隼人 その③

九州地方、わけても薩摩は、江戸時代以来衆道(少年愛)のメッカでした。明治維新によってその風潮が東京に伝わると、それまで女色に圧倒されてすっかり勢いが衰えていた男色が東京でも息を吹き返し、さらに日進日露戦役で好戦的気分が広まるに伴って、一代流行の観を呈したとか。

 

実際男色は大変な流行だったようで、、たとえば森鴎外の長男でのちに解剖学者となった森おとは明治三十三年に森家を去った書生の「小出さん」に誘われて写真やで一緒に写真を撮ったときのことをこう記しています。

 

小出さんが端然と腰をかけ私を右後に立たせて左手を小出さんの肩にかけさせた。私はうちとけた方がいいと思ってレンズの方に笑いかけた。この写真ができたのを見て小出さんは「坊ちゃん口を開いていないと美少年なのに」と機嫌が悪かった。しかし私は余り気に入られない方がいいような気がした。(「観潮楼玄関番列伝」)

 

きっと少年は男色家好みの美少年だったのでしょう。そういえば、このほぼ十年後にも、彼は鴎外を中心に開かれていた歌会のメンバーの一人で少年より五歳年上の歌人・平野万里から少年に「あなたも歌をよみませんか」と誘われたともいいます。平野の真意は、どうやら歌とは別のところにあったようで、少年は、これは自分を弟分にしようという「下心」があるに違いないと敏感に感じ取ったとか。弟分にして可愛がってやろうという魂胆が感じ取れたというのです。

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薩摩隼人 その②

すなわち昔の先生は、厳しかったけれど、日常生活に必要な事は、お尻の拭き方までちゃんと教えてくれたというのでしょう。池波氏が東京は浅草で呱々の声をあげたのは大正十二年。尋常小学校の二年といえば満七歳ですから、昭和のはじめの事だと思われます。七歳の児童にお便所でお尻の拭き方を教えてくれた先生。これこそ手取り足取りのふれあい教育というべきでしょうか。

しかし待ってください。この先生、本当に立派な教育者だったのでしょうか?池波氏が実のところどのように感じていたのかは、故人ととなった今では確かめようがありませんが、すくなくとも池波氏より三、四十年前に生まれた人たちならば、「薩摩隼人の先生だtって?ああ、それは男色愛好者だよ」と(事実か否かお構いなく)即座に決め付けるに違いありません。

 

薩摩隼人 その①

「男の作法」は、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」等のシリーズで知られる人気作家、池波正太郎氏の数ある随筆の一つです。文字通り一人前の男が心得ていなければならない様々な作法を、親しみ深い語り口で綴った逸話ですが、その随筆の中に、先日、私は次のようなくだりを発見しました。

 

そのころ小学校の先生というのは、一番僕が覚えているのは、尋常二年のときに、九州出身の先生が、もう亡くなりましたけど、薩摩隼人でなかなか厳しくて、ずいぶんなぐられたけどね、便所へ入ってお尻の拭き方教えてくれるんだよね。チリ紙出してね。それは今でも覚えていますよ。

 

上は男女問わず電話のかけ方がなっていない。自分達の世代は、電話はまだ普及していなかったが、その正しいかけ方を学校の先生が教えてくれたものだ、という概嘆に続く部分です。

 

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