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心中は武士の手本 その②

さても恐ろしき女の情念、そういえば、若いという意味の「夭」の字を「女」と合わせれば、妖怪の妖となる。なるほど若い女に男は「迷ひもし化されもすること也」と、川路は改めて女(この場合は、とりあえず若い女性)の切なる思いの恐ろしさを感じ内では、いられませんでした。

ところで、恐ろしいと感じると同時に、川路は、”情痴の果て”に自ら命を絶った二人の、なかんずく女の身でありながら死を恐れなかった遊女の勇気に、心の底から驚嘆したとも語っています。三月二日の日記を開いてみましょう。川路は、武士が従容と(心の動揺を見せずに)腹を切るためには日ごろからどのように心がけるべきかという問いに対して、さる人が語った次のような談話を思い出しています。

心中は武士の手本 その①

botan川路をして、自分は彼女の百分の一も・・・・・と慨嘆させた相手の遊女は、ではどれほど宗次郎のことを愛していたというのでしょう。二人の心中現場を検視した役人の報告によれば、死骸の側に彼女の遺書が置かれていて、それには「正月五日初めて宗次郎に逢ひ、此人ともに死なむとおもひ定めしに、けふ願のかなひける」と認められていたとか。

一月二十五日に初めて出会った二人。ということは、情死を遂げるまでわずか一月余りの時間しか経っていなかったのです。しかも遺書の文面から推測するに、彼女は、宗次郎を一目見て「この人と一緒に死のう」と心を決めたようです。彼女と彼の間にどのようなやりとりがかわされたのか、川路の日記には何も記されていないので定かでありませんが、男の側に立ってみれば、まるでメイドの道連れを求め待ち受けていた女の綱に掛かったようなもの。そうとしって川治が思い出したのは、子供の頃呼んだ中国明代の怪談集「彅燈新話」中の一編「牡丹燈記」の話でした。この世に迷いでた女の亡霊が男を誘惑して墓穴にひきずりこむというそのストーリーが、宗次郎の中心事件と「少もかはらず」(そっくりだ)というのです。

宗次郎の死 その③

憎むべき恩知らずもの!と思う一方で川路は、こんな事態を招いた原因の一つが受人としての自分の愛情の薄さであったと反省しないではいられませんでした。

天下にわれほど親敷ものはあらねども、共に死せむといひしもの程の深切りの百分の一もなし。それがために死せしなるべし。

孤児同然の宗次郎には私以外に頼りになる人はいないはず。そう思っっていた私は、しかし「一緒に死のう」と行った女が注いだ親しみの百分の一だって彼に示しただろうか。だからこそ彼は、女の親しみの深さに引きずられて情死に至ったのだろう。

川路は続けて「可憎之至、可憐之至也」と書いています。可愛さ余って憎さ百倍?いえ、憎いのは憎いがそれにもまして憐れでならないといった心境ではなかったでしょうか。

宗次郎の死 その②

ただの一家来の、いいえ既に家来ですらなくなっていた男の情死に、川路はなぜかくも激しい哀しみをささげなければならなかったのでしょうか。「以前」といっても、宗次郎に暇をだしたのはつい昨日のこと。つまり遊女にうつつを抜かし多額の借金をかかえているとしった川路から解雇をつうこくされたその日に、宗次郎は馴染みの遊女と情死を遂げたのでした。したがって、川路にとっても奉公人たちにとっても、宗次郎の事情はさながら身内の出来事と受け止められたのでしょう。

昨日まで共に暮らしたものの非業の死。それにもまして、宗次郎が川路にとって我が子同然の家来だったことが、悲しみを特別なものにした理由だったと思われます。父母をなくし頼る兄弟もいない孤児同然の宗次郎を縁あって引き取ったのは、彼がまだ七、八歳の頃。以来子飼いの奉公人として可愛がってきただけに、川治の痛みと憤りはひとしおだったのではないでしょうか。

shinju

宗次郎の死 その①

なんと愚かな・・・。弘化四年、奈良奉行川路聖模は、突然の事件の報に接して、ため息を漏らさないではいられませんでした。前日、以前わが家来だった長沢宗次郎(川路の日記には他に惣二郎とも表記されています。要するにソウジロウ)という男が、木辻街の遊女と相対死、すなわち心中を遂げたのです。女を先に絶命させたのち自害した宗次郎は、発見された時はまだ少し息があったのですが、結局翌日中にそのわずかな息も絶えてしまったとか。

奉行として奈良に着任してから一年あまり。着任半年後に江戸に残った長男彰常が病で頓死するという大きな不幸に見舞われた川路が、そのショックからようやく立ち直ろうとした矢先に起きた元家来の不祥事でした。この日の日記に、彼は「哀しくて涙とめがたし」とその悲嘆を吐露しないではいられませんでした。川路だけではありません。妻のさと、そして下女たちだって、あまりのショックで「ろくに食事いたすものなし」ということです。